被害者にとっては悲惨な事件だ。私自身は最近はあまり秋葉原には行かなくなったのだが、休日昼間の秋葉原はにぎやかで平和な街だった。あんな場所で白昼の人殺しなんてよほど自暴自棄にならなきゃやらないものだろう。
もれ聞こえる報道によると、今回の秋葉原の容疑者も案の定、他人とのコミュニケーションが苦手だった人物らしい。コンプレックスというか劣等感というか、話し相手もできない孤独な状態に彼はいたそうだ。
しかしあの携帯という小さい画面でのコミュニケーションに依存していたり、ゲームにばかり没頭していたりすると仮定すると、他人とコミュニケーション能力の発達が阻害されるのは当然ではないだろうか。目の前の愉楽に目を奪われ、社会に適合するためのコミュニケーション能力を育たなくしてるのは本人自身の責任ではないのか。
3月におきた土浦の荒川沖駅構内での通り魔事件もゲーム狂の仕業だった。あのときの容疑書のコメント「誰でもいいから殺したかった」は、今回の秋葉原の容疑者の言葉「人を殺すために秋葉原に来た。世の中が嫌になった。誰でもよかった」と同じではないか。
他人とコミュニケーションができず社会に適合できなくなり自暴自棄になる。電車でずらりと並んでいる人が全員携帯にカチカチ打ち込んでいたり、電車で立ちながら携帯ゲーム機に没頭しているのを見るにつけ、日本はおしまいじゃないかと不安になる毎日である。
さらに電車を見渡してみれば、大人になっても安っぽいストーリーの小学生向けマンガを読みふける人々。精神的に未発達な人々が多すぎる。
さらに言えば、電車で立ちながらまでやらなければ気がすまないほどゲーム中毒になる人を作っているのは、携帯ゲーム機メーカーだ。彼らに責任がないかといえば、私はそうは思わない。面白くて熱中するゲームを作ることは、あわせて不幸な人を増やしていることに他ならないことを自覚してほしい。
また大人にもなって命の大切さが理解できないのは教育にも問題があったといわざるを得ないだろう。シューティングゲームで3つの命を落としてゲームオーバーになっても、またスタートボタンで始められるゲームと、実際に生きている世界との見境もつかなくなっているのではないだろうか。命の大切さを理解させるのに、工夫をする余地はないのだろうか。
今回の事件を単なる狂人の仕業と片付けるには世間に問題が多すぎると私は思う。
posted by グスタフマーロー at 01:14| 神奈川

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